失敗について、どんなイメージをお持ちでしょうか?

このプロジェクトに失敗したらどうしよう
失敗についてすごくネガティブな印象を持っている人も多いかと思います。もう才能がないんじゃないのかと落胆した日もあるかもしれません。僕もそうでした。しかし、歴史の偉人たちも、多くの失敗を経験しました。
リンカーンはお店の経験がうまくいかず、破産した経験がある。徳川家康は、武田信玄に敗北し、軍も壊滅的な状況になり、本人も死にかけました。ウォルトディズニーは、誤って他社と不利な契約をし、キャラクターの著作権と大勢の社員を失った。
大きな失敗をしたからと言って、それが才能のなさの根拠にはならないのです。
そんな失敗をどう解釈するのか。失敗の科学の世界を少し覗いてみませんか??
認知的不協和
もし友人が怪しい宗教に入信していたら、間違いを指摘し、元の生活に戻るように誘導したいと思うかもしれません。しかし、否定すれば、否定するほどのめり込んでしまうことが多々あります。その事例を見てみましょう。
オカルト宗教では、教祖が

大洪水が起き、世界は終わりを迎える!!
と言った団体がありました。
実際に大洪水どころか、雨すら降らなかったが、信者は失望して脱退するどころか、よりオカルト宗教にのめり込むことになります。

きっと、教祖様がお祈りして、わたしたちの儀式が幸いして洪水は起きなかったのでしょう
これは一重に「通過儀礼が過激である」からです。
周りに多くの人に反対されても信仰をやめないという過激な通過儀礼を受けています。
さらに、間違った事実を認識すると、その呪縛から解かれるどころか、よりのめり込んでしまうのです。
人はその「不協和」を自分が間違っていない方で解釈しようとするからです。
「過激な通過儀礼が必要な」職業
これは、オカルト集団だけの話ではありません。一般社会でも、「過激な通過儀礼が必要な」職業があります。
例を1つ挙げると、検事はこの傾向が強いです。学校では常に1番で、法学部を主席で合格し、何十年も裁判を繰り広げてきて、その中で優秀な人のみが検事として仕事を任せられます。
これも「通過儀礼が過激である」と言えます。
責任感も強いし、何より自分が無罪の人間を冤罪として祭あげることなどあるはずがないと思っています。失敗も今まで一度もないはずだ。過ちがあれば、今検事としての自分の地位はないはずだからです。
でも人間だから失敗もしてきているが、本人が気づいていないだけです。
絶対的な証拠でも過ちを認めない検事
DNA鑑定が導入されて、判決がひっくり返った例はいくつもあります。しかし、そのどれもが冤罪者を刑務所から出すのに3年長くて5年かかった。DNAで違う人物であるという証拠までできたのに、なぜか。裁判所の手続きが遅いのか?
検事が自分の過ちを認めないからです。そのせいで、冤罪の人は刑務所から無罪が科学的に証明されても出れないのです。
なぜか。過ちを犯した人は検事を続けられないからです。自分の保守のためではありません。その人は今まで、過ちや失敗をしたことがないので、自分が間違った判断をするわけないと本気で思っているのです。
敢えて間違えろ
『「2、4、6」これと同じルールである数字を3つ挙げなさい。』
という例題があったとする。

偶数が昇順で並んでいる
と仮説して答えを導きだします。その仮説で3回とも正解であったなら、確信を持って他人にも

これは偶数の昇順っていうルールがあるんだよ
と得意げになって説明するはずです。
でも、もしこれがただの昇順で、偶数である必要がないとしたら、この仮説はどうやって間違っていることがわかるだろうか。この仮説である限り間違えになることは100%ない。
「あえて間違える」ことだ。「2、4、5」でも正解であるなら仮説は間違っていることになる。
多くの人が正解を出すことに躍起になり、「本当の正解」に辿り着く前に「自分の仮説の狭い正解で世界を見ている」状態になるのです。
物語が人々の判断を鈍らせる
HIV感染予防の話
ある団体が、HIV感染予防の対策として大きく4つ、「抗レトロウイルス」「カボジ肉膜の外科治療」「コンドームの配布」「性産業者への教育」の活動を行いました。
どれも効果がありそうだが、費用対効果では圧倒的に性産業者への教育が素晴らしい予防効果をもたらしました。
医療機器不足はおろか、医者も必要ない。しかも教育であれば現地の人が教壇に立つことも可能で持続面でも優れています。
でも実情はほぼ均等に割り振られていなす。なぜでしょうか。
現地で従事している医師はこのように証言しています。

現地で目の前で助かった人を見ているのに、現場での医療をやめろと言うのか?
現地での調査でも、HIVに感染し、完治した女性は

お医者さんのおかげで、完治することができました。感謝の言葉だけではたりませんよ
と涙ながらにカメラの前で述べました。
この感謝の声や目の前で起きている現実の方が、重要度が高い。この映像が流れて、現場の医療を止めることに賛同することは難しい。逆に

教育を受けたおかげで、HIV感染せずに済みました
など、これが教育のおかげだと自分で認識することは非常に難しいし、教育をしていない自分と比較することができない。
一方、一度感染してから完治した方が、「誰のおかげで改善した」か分かり、物語が分かりやすい。数字よりも「物語」で正解を見ていないか気をつけよう。
本日はこの辺で。それでは又又六。
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