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日本と朝鮮(韓国)の歴史②〜大邱で眠る日本人沙也可(金忠善)の地を訪ねて〜

司馬遼太郎

 日本と朝鮮の歴史第2弾!

 司馬遼太郎先生の「韓のくに紀行」で、秀吉軍から朝鮮軍に寝返り、なんと朝鮮のトップ2まで上り詰めた男が居ると知り、彼の眠る大邱まで足を運んだ紀行文です。

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反日種族主義 感想・要約① 反日生みの親、李承晩とはいかなる人物か編

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秀吉軍から朝鮮側に寝返った日本人「沙也可」


 豊臣秀吉の朝鮮出兵の理由は諸説ありますが、朝鮮軍に寝返った日本人がいるとは考えもしなかった!しかもまぁまぁいたらしい。理由は様々であるが、この沙耶可さんは、

「なんて平和な国なんや!!」

って、思って寝返ったみたいです。日本は戦国時代。どの時代にも平和を愛する人はいますからね。。。中でも、彼は儒学者で、武力でなく勉学で人の真価を問うことに重きを置いていた様で、その理想に近かったことも理由として挙げられています。

 こちらが大邱広域市にある「達城韓日友好館」です。反日と言われる韓国でこのような施設があることに驚きです。日本でやれば、名古屋市のように叩か…(規制)

 ここまでの行き方は

大邱空港→東大邱→達城韓日友好館

金海空港(釜山)→東大邱→達城韓日友好館

この移動で衝撃だったのが、韓国のバス到着時間はざっくり、到着場所もざっくりだからスマホ見てバス待つことはできず、常にバスを探している状態。しかも、扉閉まるのが尋常じゃなく早い。降りる時も扉の前にいるのに強制的に閉められている姿もしばしば。(現地人)法定速度も絶対守ってないやろ!くらいの圧倒的速さ。グーグルマップで50分かかる予定だったのが、20分弱で着きました(笑)

 久々に見るデカデカとした日本語表記。早速中に入ってみましょう。

 入館料は無料です。案内役の人は日替わりで変わるみたいですが、僕が訪れた際は元サムスンの社員で日本で駐在員として働いていた経験もある方で、日本語がものすごく堪能な方でした。彼は、退職後に韓国を訪れた日本人に向けて日韓の友好であった時期の歴史を教えたい気持ちから今の職に就いたみたいです。彼以外にも日本語話せる案内員が比較的多いみたいです。韓日友好館と謳ってるだけありますね!

 この案内の人に声をかけると、まず10分程度の映像から見せていただけます。もちろん、こちらも日本語でやってますので、絶対見たほうがいい作品です。

沙也可とはいかなる人物か

 では、その沙也可さんはどういう方なのか、簡単に紹介したいと思います。日本人であることは間違い無いのですが、そこまで有名な武将ではなかったようで、詳しいことはわかっていませんが、住み着くことができたことから元から朝鮮語を話せる環境にいたことが予想され、九州地方、特に対馬にいた武将ではないかと言われています。この朝鮮語が話せることを買われたこと、住んでいた地域で武士としての才能を認められていたことなどがあり、朝鮮出兵の時にある程度の軍を率いていたと言われています。

 儒学者であったことからも農民出身でなく、ある程度の裕福な環境であることが伺えます。その彼が、前にも述べたように戦国時代に見た平和な朝鮮の街並みを見て、この街のために戦うことを決めたようです。結構当時寝返った武将がいたと、この記念館には記されていました。テレビもネットもない時代ですから、九州周辺では

「秀吉?誰やねん、それ?」

みたいなことがあったのでしょうか。今関西でレギュラー3本のノリに乗ってるお笑い芸人が東京進出したときの、へ〜面白い人だな感に似ているんでしょうか。それまで知らない、すごい人とは聞いてるけど、自分の中のすごい人のランキングには入ってないみたいな。

 話は戻って、沙也可さんは1回目の朝鮮出兵時(文禄の役)に寝返り、その際にこの大邱の地域から火縄銃などの日本の技術を伝達していたようです。そして二度目の出兵(慶長の役)の際に、明軍と共に秀吉軍を撃退した主導した人物の一人であったみたいです。

本物の火縄銃は期間限定で公開しているようです。二階のフロアは日本の戦国時代の物が多く展示されていました。

 その後も、北方民族や明が攻めてきた際に、先陣を切って指揮を執り、なんと韓国の英雄の李舜臣の階級まで上り詰めたと言われています。

「いや、今これだけ日本バッシングしてる国が日本人をそこまで重要なポストに置くか?」

と思われた方もいるかも知れません。目の付け所が素晴らしい!!この点について司馬遼太郎先生はこのように考察されています。

「沙也加を書いた慕夏堂文集は6世の子が、自分の家族を村を特別な配慮をしてもらうために、本人が書いたとする自伝として紹介し、恩恵を受けようとした。」

沙也可の自伝とされる書物

 6世代前って曽々々々祖父のことですよ?親は偉大だ!ってひと世代前でも思うのに、6世代前ってもう盛りに盛られてますよ(笑)でも書籍として国から認められたということは、階級等には誤りがなかったということではないでしょうか。すごい人物であったことは間違えなさそうです。

李舜臣とは、文禄・慶長の役で亀甲船を使って秀吉軍を翻弄し、勝利に導いたと言われる朝鮮の英雄。日露戦争の際には、バルチック艦隊の丁字作戦を決行するにあたり、東アジアの海戦術の父として、慰霊碑に手を合わせていたそうです。そんな英雄を朝鮮人は忘れていたらしく、皇民教育でこんな英雄がいるのか!と知ったらしいです。

  ここ↑は、沙也可さんが、晩年日本の方向を眺めながら祖国日本のことに思い耽っていた場所のようです。自身の歌にもしていました。

「え?帰れば良くない?近いじゃん!」

って思った方もいるかも知れませんが、まぁ、あなた。寝返ったってことは日本裏切った側の人間ですからね、そりゃ帰れませんよ。永久追放です。置いてきた妻や子供、親、友人など想いを寄せていたそうです。韓国で子供作ってるけどほんとか…(規制)


長くなりそうなので、大邱旅行記①はこの辺で。では双六!


コメント

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